鳥取県米子市で占い、カウンセリング、ヒーリングをしています。
夫婦でセラピストをしていますので、嫁さんと読んだ人の人生が楽しくなるよう話を書いていきたいと思います。
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ふじ原ツトム&惺ゆり

鳥取県米子市で占いとカウンセリング、 レイキを使い人生を幸せな方に変える(チェンジする)お手伝いをしている、ふじ原ツトムと申します。

2006年に「占い&カウンセリング ゲッターラボ」ってかたちで「占い」「カウンセリング」「ヒーリング」を仕事にして、

今まで多くの人の相談に乗ってその解決のための手助けをさせてもらってきています。

僕自身、「占い」「カンセリング」「セミナー」「コーチング」「コンサル」「講座」「本」「自己啓発」などなど、いろいろと経験してそこでも多くに気づきがありましたが、同時に常に違和感も感じ続けていました。

それは、それらの人は何か「特別な人」に感じられていたからです。

特別な生まれ、過去、環境、能力・・・「ドラマチックなストーリー」。
それらがあるからできている「特別な存在」。

僕にある「特別」は、普通の人よりも少し不幸な生い立ちだけで、そこから這い上がろうと努力したわけでも、それを恨んで落ちていったわけでもなく、「普通」だったのです。

そんな「ドラマチックなストーリー」を持たない僕にはそうはなれないのでは?

でも僕は変われました。自分のやりたい事、好きなことを仕事にして自分らしい生き方をしています。
かなりぬる〜く生きてはいますが「幸せ」と言えます。

だから、特別な人が変われるのは他に幾らでもありますが、
特別な才能、過去、生まれ、環境、全てを投げ打っての努力、ドラマチックなストーリー・・・そんなものを持たない普通の人の人生を「幸せ」で楽しい方に変えるのが僕の理念です。

そんな「特別」がなくても「人生は楽しめるんだ」って証明したいのです。


ここからは、僕の過去です。気になる人だけが読んでももらえたら良いですよ。


それ以前はと言うと、2000年から自営で建設関係の仕事と人材を育成する仕事には就いていましたので「相談」に乗る機会も多く「心理学」など必要で学んではいました。


しかし占いやカウンセリングなどはとくに興味は無かったですし、ましてや「レイキヒーラー」なんて聞いたこともありませんでした。


自分がなぜこの世界の入る事になったのか、それは自分自身の体験から来る所が大きいです。


母ひとり子ひとりの家庭に生まれ、母は10代の頃に家出をして県外からやって来たため親戚、親類などというものとは縁を切った人でした。

父は当時は別に家庭がり、僕はいわいる「不倫の子」だったのです。

ですので、父という存在は「たまに家にやってきて泊まっていく人」だったのです。


父の方の親戚、親類とも全く縁がなく「母」以外の肉親と言うのには縁のない生活をしてきました。


母は夜、飲み屋をやって僕を育ててくれましたが、物心ついた時から夜は一人で食事をして保育園にも1人で行き帰りするって生活が当たり前だと思っていました。


そんな母は僕が小学生の時に店の経営がうまくいかなくなり、ある日、僕は母に連れられて「夜逃げ」する事に・・・・

小学校の友達ともお別れの挨拶すらさせてもらえませんでした。


そこからは貧乏な生活を続けていましたね。裏はお墓、前はゴミの収集会社なんてボロボロの借家に長く住んでいました。


自分で働くようになり建設関係や営業職などをやって、ある小さな建設関係の会社で社長に「自分の後を継いでくれ」って言われるようになったのですが、

その社長が急死・・・専務が社長を務めるようになり会社を追い出されるかたちで独立。


それと同じ頃に、その頃はうちに住み始めていた父が脳梗塞で倒れここから長い入院生活がはじまります。


父はもともとの奥さんと離婚は成立していなく、追い出されるかたちでうちに住んでいたので戸籍上は他人ですから「手続き」関係がなにも出来ずに苦労させられました。


独立後は順調に何年か過ぎ、まともな家に住めるようになったのですが、母も脳梗塞で倒れ働けなくなり、

時を同じくして一番の大口の取引先が本社の方針転換で一切仕事がもらえなくなります。


そこから長い「お金」との戦いが始まります。


それまでにも父の入院費でかなりのお金を使わされていたのですが、ここでの収入の激減、

働けない母を養い父の入院費の払いで一気に資金繰りが立ちゆかなくなってしまったのです。


その頃からです。なんとかこの状態から脱出したくて本やセミナー、自己啓発などいろいろと手を出し始めたのです。


「ナポレオン・ヒル」「マーフィーの法則」「引き寄せ位の法則」「幸せになる魔法の言葉」「斎藤一人」「小林正観」「アチーブメント」
・・・・・

いろいろな事を学び、いままで考えもしなかった事に気づいていったのですが、同時に状況は悪化する一方。


いまから振り返ってみれば、かなり異常行動もしていましたからひどい「鬱」でもあったのだと思います。


その後、家も家賃の安い所に引っ越し仕事も縮小して膨らんだ借金も整理でき、

少しの安定が訪れた矢先に母が倒れ入院に・・・そこからは亡くなるまで寝たきりの生活になります。


両親の入院費、減少した収入ではやっていけず「全財産」が数百円になる時もしばしばありました。


そんな中でも「何か人生を変えれる物はないのか」って探し続け、カウンセラーや占い師のところにも行きました。


この一連の経験からいろいろな事を学びました。

同時にその「脱出するため」に学んだ多くのものがどこか「不完全」にも思えたんです。


本やDVD、セミナー、自己啓発、カウンセラー、占い師、そのつど「良い話」を聞け体験でき、

新しいものに出会うたびに毎回「今度こそ」と思うのですが大きく現状はよくならない。


何か超えられない「一歩」があるんです。

それを聞くと「がんばれ」「思え」「手放せ」「受け入れろ」と、真理としてはあっているんだと思うんです。


でも僕が欲しいのは「具体的な一歩」だったんです。


そして気がついたのです。こういう「先生方」はその「具体的な一歩」を自然にしていることを。


これに気づいたのが、僕がセラピストになろうとしたきっかけの一つなんです。

自然に出来てしまいう人は「何か」に触れて気がつけばあとは出来ます。

でも多くの人はそれが出来ません。だから「そこを埋める」為のセラピストで有りたいと。

そして、セラピストの多くがどこか「世間ヅレ」していることも気づきました。

それは多くは若い頃からその仕事をしているためで僕のように長く会社勤め、自営業、会社の社長を経験してのセラピストは少ないのです。


心理学やスピリチュアル、占い、レイキと言った「目に見えない」世界の事をしながら、

「会社経営」「投資」「新規事業」「裁判」などの現実的な事の相談も受ける事が出来るんです(法律的な事は専門家の知り合いに頼みます)

もう一つ、多くの人に相談してきて感じたのは「自分の苦しみをわかってもらえない」ことでした。


どこかで相談した相手よりも不幸な人生を歩んできたと思えてしまうからです。

「ほんとうはこの苦しみをわかってくれないだろ」って・・・・


生まれた環境、両親、介護、お金等など兄弟や親戚の助けも借りれずいろいろな事を経験しました。

だからこそ、いま悩んでいる人の辛さに少しは共感して理解してあげれるのではないかと思います。


最後に、母も3年前に亡くなり今は「家族」と呼べるのは二匹のネコだけです。

でも今は「幸せ」と感じれる生活をしています。

以前みたいに何をしてもうまくいかないのでなく、稼ぎたければいくらでもお金は手に入ります。

良い仲間も多くいて嫁さんもいて、やりたい事を仕事にし「楽しいこと」「自分が好きな相手」だけを選択できる人生があります。

もし、そんな人生でなくて悩んでいるならまずはブログを読んでみてください。これだけでもかなりのヒントにはなります。

そして必要ならセッションを申し込んでください。対面、電話どちらでも可能です。

「まいぷれ ゲッターラボ」で検索すれば地元の情報サイトに掲載された情報がみれます。そこに「口コミ」「連絡先」「料金」も載っています。



米子、松江でオルゴナイトジュエリー、点描画などを製作して、おしゃれな生活をお手伝いしている 惺 ゆり (さとい ゆり)と申します。

小さいころから、絵を描くことやないものを形にすることや妄想したものを表現することが
好きな一風変わった子でした。

そして、産まれる前(母親のお腹の中にいる時)から、幽体離脱を経験したり、
この世に遊びに来た感覚で生まれて来たのだなという感覚の記憶が鮮明に残っています。

次女として松江に生まれるが、
姉とは別の生活をしていました。理由は後々わかりましたが…。

姉は祖父母と暮らし
私は施設で
生活をしていました。

そこでの生活は
決して楽しいものではありませんでした。いじめも受けたし、時々来てくれる家族もなんとなく冷たい感じでした。
が、唯一の楽しいことは、絵を描くことでした。

日常の風景や花、似顔絵など
1人で描くのがとても楽しかったです。、

4歳かからは2年間幼稚園へ通い
小学校、中学、高校と普通に学生時代を送り
普通に就職しました。

小さい時から厳しい家庭教育で育ち
就職してからも厳しさは変わらず、門限が9時と決められ
少しでも過ぎるとさらに厳しくなり
とうとう車の鍵まで親に預けるように言われ
仕事と家の往復のみ許された日を過ごしていました。
こんな、生活が長くは耐えられず
家出をし一人暮らしを始めることになりました。

小さい頃から親の愛情を知らずに育ち
成人してからは、幸せを求めてあらゆる占い師を紹介してもらい訪ねて相談にのってもらっていました。
が、特に何も変わらずでした。
悩みを解決する方法は聞けず、
わたしの今後の人生は、こうなるだろう
と言う当たるとか当たらないとか…の占い師さんばかりでした。

運命は決められてる?
わたしはこの人の言われるレールに乗った人生なのか?と心の奥でモヤモヤとしていました。

何か腑に落ちなくて、自分の本当にやりたいことも見つからず、普通のOL時代を過ごしていた時に知り合った今の主人と
29歳の時に結婚しました。

暖かな愛情に恵まれなかった私からみると
主人の家族はとても暖かく幸せそうに見えました。
わたしの両親は反対していたので、
結婚式には家族は誰も来てくれませんでした。

結婚してみたら
主人が家にお金を入れてくれないような人でした。
それで、喧嘩をすることもしばしばあるような生活を送っていました。

子供には恵まれて子供に絵を描く時間が増えました。その時にふと
心の奥底から湧いてくる感情が芽生えてきました。
『わたし、絵を描いてるとすごく楽しい!!』
そう思える時間が増え、幼少の時からスケッチをして1人で遊んでいた頃を思い出しました。

それがきっかけで
色鉛筆画の個展などたくさんさせていただく機会も増え、地元のファンも少しずつ増えていきました。

作品数は100点以上にもなりましたが、
2014年の5月に家が全焼し、1割も残らず
燃えてしまいました。

それと同時期に学び始めたのが
曼荼羅点描画です。自分の為に学んだ点描画が
私の心の安定の手助けになりました。

それからは
時間が有れば、点描画を描き
ひたすら『無』の時間を過ごしていました。

点描画をネットで学び精神世界と
スピリチュアルな世界へ入って行きました。

その時には、平日はパートとして働いていて
週末にはイベントなどに出店し、対面で曼荼羅点描画のリーディングをしていました。
また地域支援団体を立ち上げました。
オープンから3ヶ月経ったころに、
体調不良になり、会社も
辞めることになりました。、

そんな時に出会ったのが
オルゴナイトです。
オルゴナイトを自分で作れるワークに参加し
初めて作った時の感動が忘れられず、マスターコースも受けました。


色鉛筆画、点描画、オルゴナイト、と学んでいくうちに、自分が求めている何か根源に近いところが少しずつ潤っていくのがわかりました。

この世に生まれてきてから
何層にも覆いかぶさっていた鎧が少しずつ溶けて行き本来の自分に近いものを感じ取れるようになった時、自分を愛せれるようになりました。
過去にいろいろな方々と出会うことがたくさんあり私が感じたことは
多くの方の共通するものは、根源には
自分に『愛』があるか…だと思います。私の主観ではありますが。

とはいえ、私自身が『愛』なんて語れることはなかなかできないのですが、
ものを想像し、作り、描いていく過程には
無意識にその方の背景や生き様が現れ見え隠れするのです。

私が体調不良で会社をやめたのも
本来の自分に素直に生きていない自分に気づいたからです。
『愛』せない自分、『愛』することができない自分に気づき、外から埋めようとしていたのだと今ならわかります。

親の世間体の為、うまく自分を出すことができなかった私が、作品を『作る』こと、『描く』ことを通して自分自身を表現していくことに潤いを感じ、自分らしくいられることに気づいた時、大きな一歩となりました。


そしていまは、オルゴナイトを作成、販売。
オルゴナイト作りのワークショップ。
点描画の作成と販売、ワークショップなどを楽しむようになりました。
自分の作品を見てもらいお届けすることで、多くの人にその作品が心のエッセンスになれば幸いです。